絶望からスタートするブログ
基本的に独り言です。自分による自分のための言葉です。気分を害される方は読まないことをお勧めします。あなたの気を悪くすることは僕の本意じゃないので。
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2006年 11月 07日 (火)
僕はが怖くないです。この記事を書いてる今現在。
 でも自殺は考えてません。

 「=怖いこと」という図式が一般的だとしたら、「を恐れない」ことは勇気があること。あるいは、が怖くないって書くことは勇気を誇示しているように解釈されることもあるでしょう。僕がブログで2番目に書いた記事、「自殺」でコメントを下さったタニシさんもを選択することは勇気がいると感じてるように見受けられます。

 でも、が怖くないのは勇気があるからではなく、生に対して臆病だから。
 
 生と死が表裏一体とすると、僕は生に対して執着が薄いのです。昔、いい思い出がない。将来、先行きが暗い。ともすると、生きることに否定的になる。生が嫌なら?残った選択肢は死です。

 だからといって自殺は考えていません(誤解を招きそうなので強調)
 まず、僕に対する莫大な養育費を支払った親に申し訳ない。義理と呼べる感情でしょうか? 
 あと、僕が今死んでも、葬式に来る人は少ないと思います。知人、友人が少ないし、同級生との関係も薄いので。葬儀の故人として、気まずいです。正直僕はそれほどたいしたことないですけど、家族はとても気まずいでしょう。これは見栄という感情でしょう。

 実際問題、死んでしまえば生きているときの価値観も関係なくなる気がします。死後の世界が無であれ、天国や地獄であれ、輪廻転生であれ、清算されますから。でも、義理や見栄にとらわれているのは、僕が生きてる間の価値観から抜け出せない、ということなのかもしれません。なので、自殺はまったく考えてないです。

 この記事、自殺志願者を代弁しているように読まれている方もいらっしゃるかもしれませんが、そのような意図はまったくないです。個人的な気持ちとして書きました。他の方は分からないので。

 僕が死にたいと思ってる時期だったら、Mr.Childrenの曲『HERO』であった

  例えば誰か一人の命と
 引き換えに世界を救えるとして
 僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ
 
 
こんな状況なら名乗り出るでしょう。みんなを救いたいという尊い自己犠牲というより、この場合なら、僕の死は肯定されます。死にたいけど死ねない人間にとって好都合になり得ます。そんなことを考える自分は特別だと微塵も思ってません。日本には名乗り出る人が多数いて、一人の命に立候補しても、なかなか選ばれない事態を想像するからです。

 このような記事を書くと、生に対して不誠実だとお叱りを受けそうです。
 ・・・・・・・・・・・・
 その種の批判に対する、意見を考えていたのですが、書くのをやめにしました。来てない批判コメントに返信することを考えてましたが、きりがないですからね。自意識過剰のような気もしたし。雲をつかむようなイメージでした。シャドーボクシングみたいで。

 なので、この記事を書いた僕に対して批判がある方、コメントはご遠慮なく。いつになるかは分からないけど返信しますよ。

 ただ、僕が善悪論や道徳論で自分の感情が正しいか、まったく自信がないです。しかし、まったく悪だと決め付けられるのは違和感があるのも事実です。結局、僕が何らかの思想において正しくないと言われても、んでも構わないという感情があることは否定できない、とだけ思ってます。

 この文章を読まれた稀有な方、ネガティブな印象を持ちましたか?

 意外かもしれませんが、僕はポジティブな印象です。以前はにたいという趣旨の記事を書いたことありましたが、この記事の立場は能動的にを望むのではなく、んでも構わないという立場だからです。もし、僕が生に執着が持てるようになったとしたら、「にたくない」と思うのでしょうか?でも、僕はいずれにます。そのときは死を怖がらないでいたいです。
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Comment
この記事へのコメント
[]
興味深く拝見しました。若い方でしょうに、表現力に長けていますね。
2006/ 11/ 07 (火) 17: 47: 40 | URL | kounit # -[ 編集 ]
[はじめまして]
はじめまして。

僕は表現に関して、いつも苦戦してまして全部詰め込もうとして説明過多になったり、すっきり書こうとして説明不足になったり、過不足なくかつ簡潔な分かりやすい表現が難しいと思ってましたが、そういってくださると、そういう葛藤というか、発展途上の状態でこうブログを書いてることも悪くはないのかもしれないと思えました。
2006/ 11/ 07 (火) 20: 53: 56 | URL | ぶらうざ # 3xs9owas[ 編集 ]
[]
こんばんは。
他人の死生観を批判の対象になどするべきではないと思ってます。
逆の立場から言えばどのような批判に晒されようと跳ね除けるべきです。
批判に怯むなどバカバカしいことです。
以上が私の態度です。

 もし死に対しポジティブ、ネガティブを明るい、暗いのようにフィーリング的に使われているのでしたらバカバカしくないですか?

またもし、ポジティブ、ネガティブを肯定、否定で使われているのなら
>例えば誰か一人の命と
 引き換えに世界を救えるとして
 僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ
 この状況は死ぬだけではポジティブにはなりえないと思ってます。何故なら生への誠実さが死とセットに用意される必要があるからです。自己の死を肯定したいだけなら構いませんが、他人はキリストのような誠実さをもって肯定します。もちろん助かるなら誠実さなど必要ないと考える人間もいますが、犠牲に対し肯定否定という関心の仕方は示さないでしょう。
 ぶらうざさんの死に方では他者の肯定が得られないと仮定して、自己肯定度が死と引き換えるものの重要度に依存するなら構いませんが、自己肯定度が死という行為に対する確信に依存するなら私にはゴキブリの命と引き換えでも大差ありません。
 これは自己犠牲の精神からでも自己卑下の精神からでもなくパズルのような感覚ですが、このピースにはまる死は自分の生を尊び望みながらも自己を犠牲にする誠実な死です。だから私の死をそこに収めようとすると形の違うピースを無理矢理はめ込んだようでとても窮屈な気がします。
2006/ 11/ 07 (火) 21: 16: 32 | URL | 楽園 # nts.E40U[ 編集 ]
[生死の自己決定権]
こんばんは。

この記事の主眼は「死が怖くないのは勇気ではなく、生に対して臆病だから」で、補足的に、だからといって安易に(死にたくなっても)自殺できない(と感じている)現状を書いたつもりだったんですよ。楽園さんのコメントを読んで、その補足の部分を整理して考えてなかったなあと感じ、さらにその部分の考えも少しまとまりました。

>他人の死生観を批判の対象になどするべきではないと思ってます。

潔い態度です。気持ち的には共感しますし、僕も基本的に他人の死生観を批判するつもりはないです。ただ、自分の死生観に関してそこまで割り切れないです。

一般的に生死の自己決定権が認められるかは、難しい問題だと思いますが、僕の死に関していえば自己決定を押し切れないです、感情的に。生まれてから知らないうちに自分の生が自己決定の範疇に収まらない判断基準に含まれているような気がするんですよ。自分の人生が独立したものとして存在してなくて、他の枠組みに組み込まれている感じというか。少なくとも親は自殺して欲しくないんじゃないかと思います。だから、僕が死を選択したい場合でも、自己判断だけじゃなく他の判断基準を”気にする”んです。

もっとも、「死生観の評価」と「生死の自己決定権」は微妙に違う議論ですが、僕は生死の自己決定を押し切れないことが、「死生観の評価」に繋がってきますので。

>もし死に対しポジティブ、ネガティブを明るい、暗いのようにフィーリング的に~肯定、否定で使われているのなら

鋭い着眼です。ネガティブという言葉は、暗い、否定、悪、罪、嫌悪感・・・・いろいろ入り混ぜて使いました。つまり言葉を濁しましたw

倫理観、人間観、感情論、道徳論、人生論・・・いろいろな文脈から語られるテーマでしょうし、それに対しはっきりとした言葉が思いつかず、ネガティブという表現を使いました。書いてるときはそこまで意識してないですが、後から分析すると。

>犠牲に対し肯定否定という関心の仕方は示さないでしょう。

確かに。記事の中で「僕の死は肯定されます。」と書いたのは安易だった気がします。「否定されない」くらいのニュアンスでしょうか。

>生への誠実さが死とセットに用意される必要があるからです。

「生への誠実さ」の部分は死を解釈する人に委ねようとしているのかもしれません。「僕の死は肯定されます。」は書きすぎでしたが、>犠牲に対し肯定否定という関心の仕方は示さないでしょう。で僕は充分だと感じるのでしょう。「否定されない」程度なら良しと。ちょっとこの部分ははっきりと自分の中で線引きできないけど、前述した「自分の生が自己決定の範疇に収まらない判断基準に含まれている」と感じている僕の自己決定以外の判断基準を”気にする”部分と対応します。

>自己肯定度が死と引き換えるものの重要度に依存するなら構いませんが、自己肯定度が死という行為に対する確信に依存するなら私にはゴキブリの命と引き換えでも大差ありません。

ごめんなさい。この箇所は文意を取り損ねました。「死と引き換えるものの重要度に依存する」と「死という行為に対する確信に依存する」の違いがはっきり掴めませんでした。後者の方が強い印象を受けましたが、ただこの箇所と、

>だから私の死をそこに収めようとすると形の違うピースを無理矢理はめ込んだようでとても窮屈な気がします。

↑の箇所は楽園さんとの”気にする”部分の違いが現れているのではないか、と想像します。僕は「自分の生が自己決定の範疇に収まらない判断基準に含まれている」と感じてますが、楽園さんの場合、他人の動向も自己判断基準に内包されると、別の捉え方をしているのかもしれませんが。

パズルの例えに沿えば、僕の”気にする”程度というのは、ピースにきちっとはまらなくても死の位置がジグソーパズルの枠外になければいいと考えてるような気がします。

何を気にしてるのかはっきりさせようとすればするほど分からなくなっているのが正直なところですw 僕の場合、漠然とした印象が”気にする”部分のベースになっていることに書きながら気づきました。

2006/ 11/ 07 (火) 23: 32: 58 | URL | ぶらうざ # 3xs9owas[ 編集 ]
[私の問題でぶらうざさんの問題ではなかったことかもしれません。]
>記事の主眼は「死が怖くないのは勇気ではなく、生に対して臆病だから」
だからといって安易に(死にたくなっても)自殺できない(と感じている)

 これを当然のことと受け取ってしまったので、その上でコメントしていました。
臆病→動機の感覚を忘れた、に私は変わってますが。

 ぶらうざさんの「死ねる(=死が許される)状況になれば死んでもいい」
に対し「その死は積極的に肯定はされない、できない」と答えてるわけです。
だから「死ねる状況」になれば死んでもいい。この立場にとっては寝耳に水というか言掛かりに近いかもしれません。だからピンとこなかったのだと思います。
以下の文章は「死ねる状況」になれば死んでもいい立場には益々どうでもいいことかもしれません。
以下の肯定=積極的な肯定の意味です。

 世界を救うという理由。
この理由は他者を納得させるためだけのもので、それは事故死に見せかけた自殺などでも代替できます。
死が怖くないのなら自分に対しこんな理由はいらないんじゃないでしょうか。
他者に対し生に執着が薄いという理由で死ねないだけじゃなく、自分に対しても生に執着が薄いという理由では死ねないんじゃないのか。もしかしたら他者のための理由と自分のための理由が混ざってしまってるんじゃないのか。その理由は自分のための理由としては嘘臭い。というが疑念が根底にありました。

その上で
>自己肯定度が死と引き換えるものの重要度に依存するなら構いませんが、自己肯定度が死という行為に対する確信に依存するなら私にはゴキブリの命と引き換えでも大差ありません。
 なんて書いてるので益々ピンとこないのかもしれません。
確かに分かりにくい文章です。せめて
自己肯定度が死と引き換えるものの「重要度」に依存する
→「一般的な重要度」とすべきでした。
 これは他者の肯定が得られない(また得られたとしても他者の肯定=自己肯定とできない)という仮定の話です。・()内は文脈に沿いませんが()内の人物も同じことが言えるでしょ。
他者の肯定が宛てにならないなら自分で肯定するしかないという極論です。そして自己肯定の源は何かという話です。
世界を救うためという理由が自己肯定の理由になるのか。
命と交換に世界を救うという行為の”世界”の部分に肯定の源があるのか。
例:A君には愛している彼女Bがいます。
他者の肯定があろうがなかろうがA君が命と交換に救う対象としての、”B”もしくは”Bが存在する世界”にはA君の肯定の源があると推測できます。(彼女を自家製フィギュアにしても構いません)
しかしもしBに当たる対象を持っていないとしたら、救う対象ではなく死に方でもなく、死ぬという意思を肯定するしかないんじゃないか。Bのない人間が積極的な肯定を手に入れためるにはどうでもいい理由を引っ張ってこず死ぬという行為だけをただ肯定するしかないんじゃないのかという話です。
ぶらうざさんにはどうでもいいことと感じるかもしれません。Bを持ってないのにBを持った振りをしないようにしようと誓っている私が勝手に問題だと感じた可能性が高いです。


>パズルの例えに沿えば、僕の”気にする”程度というのは、ピースにきちっとはまらなくても死の位置がジグソーパズルの枠外になければいいと考えてるような気がします。

こっちの一面はその通りかもしれません。
自分の動機と他人が予想する自分の動機のずれ、自分の動機と自分の選択のずれが我慢できませんから。
歴史に名が残るなんて考えずに世界を救うために死にたいなんて奇特な人がどこかにいると思いますので、私が世界を救うために死ぬ席に座っているのならその方に席を譲ります。

 

 最初の死生観を批判云々は、
にも関らず批判的な文章を書いてる自分への言い訳と
だから私の批判なんて気にしないでという侮った気遣いと
”善悪論や道徳論で自分の感情が正しいか”なんて気にしなくていいぞというアドバイスに
自分も屈しないぞという決意をちょっぴり込めた、程度の低い警句みたいなもんです。
2006/ 11/ 09 (木) 20: 28: 28 | URL | 楽園 # nts.E40U[ 編集 ]
[自己肯定度の話でしたか]
>ぶらうざさんの「死ねる(=死が許される)状況になれば死んでもいい」
に対し「死ねる状況だとしてもそれだけでは積極的に肯定はされない、できない」

僕と楽園さんの問題の違いが最初のコメントでイメージできなかったのですが、これは分かりやすくていいです。その通りです。

>世界を救うという理由。

大儀な理由を持ち出したのでいろいろ引っかかる点もあると思いますが、事故死も有力です。ただ、世界を救うの方が分かりやすかったのと、事故の質によっては嫌ですね。うっかりで死んだ奴と思われたくない懸念があったので、世界を救う理由を出しました。

>他者の肯定が宛てにならないなら自分で肯定するしかないという極論です。そして自己肯定の源は何かという話です。

なるほど。分からなかった箇所が分かってきました。積極的な自己肯定を目指す場合だったんですね。”世界”が”肯定の源”になっているか?なっていなければ行為を肯定するしかないという話でしたか。

>ぶらうざさんにはどうでもいいことと感じるかもしれません。

ごめんなさい。概念的には理解できるんですが、感覚的にはピンときてないのが正直なところです。

>歴史に名が残るなんて考えずに世界を救うために死にたい~

それも迷ったんですよね。空想ですが、ミスチルの歌詞は歴史に名を残すくらい大々的に報道される出来事なら僕は降りたいです。どの程度広報されるかは歌詞になかったので、有名にならないケースということで。

>最初の死生観を批判云々は~

批判的な文章だったとは気づきませんでした。本文中に批判がある方、コメントはご遠慮なく。と書いておきながら。鈍感でした。
2006/ 11/ 09 (木) 21: 50: 05 | URL | ぶらうざ # 3xs9owas[ 編集 ]
[初めまして]
こんにちは。
読んでてなんか気持ちわかるなぁって。
私も「生」とか「死」とかについていろいろ考えたことがあって、
誰からも愛されてない私は生きてる意味がないと思いました。
でも死ぬ意味もないんですよね。
それからとりあえず生きることに決めた私は、どうせ生きるなら
いろんなことやってから死のうって思っています。
偉そうにすいません。
何か気を悪くされたらごめんなさい。
2008/ 03/ 08 (土) 11: 56: 02 | URL | ちぃ # TY.N/4k.[ 編集 ]
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