絶望からスタートするブログ
基本的に独り言です。自分による自分のための言葉です。気分を害される方は読まないことをお勧めします。あなたの気を悪くすることは僕の本意じゃないので。
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2006年 11月 26日 (日)

 生理的にやりたくないけど、完成させなければいけない書類がありました。
 完成させないといけない、という意識があるので眠らないようにしました。

 しかし生理的に受け付けないので手が進みません。
 とりあえず起きてネットやゲームをしてました。意識の上では1時間後にやろう。と思うのですが、手が進みません。とりあえず起きてました、午前7時くらいまで。

 すると眠くなって日中寝てしまいました。19時くらいに起きます。書類を完成させなければいけません。しかし生理的に受け付けないのです。また起きてました。部屋を整理したり、自炊も後回しにして書類を完成させようとしました。しかし結局手をつけず。生理的に受け付けないからです。前日と同じようにただ起きてるだけでした。

 そんな生活を1週間近く続けてしまいました。余計他の雑務もたまってしまいました。

 そんな自分は愚かに見えました。客観的に見れば。

 だけども、なかなか自己管理は難しいです。

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2006年 11月 16日 (木)

 


 悪いとき、ピンチの時、うまくいかないとき、不利なとき、不調のとき、


 そういうときこそ、頑張らなきゃいけないのかもしれない。


 なのに、後悔したり、無気力になったり、投げ出したくなる。


 昔、流行った歌でいうところの、


 『負けないこと♪逃げ出さないこと♪なんとかなんとか♪信じぬくこと♪


 だめになりそうなとき~それが一番大事♪』


 


 そこまで理性的になれない。


 うまくいかなかったら落ち込む。遅れてたらやる気が萎える。ペースが遅くなる。


 


 自然な感情だけど、


 理想としては、いいときもわるいときも、能力を最大限発揮できるように。


 ということは、


 下手に落ち込むべきではないのかもしれない。


 悩む必要はないのかもしれない。


 


 うまくいかなくて落ち込むのが条理という印象だったけど


 合理的に考えると不合理なのか。変な表現だけど。


 理想として、状況の良し悪しにかかわらずマイペースに進めるようになりたい。


 


 結果よりプロセスって感情的な(感情に配慮した)肯定論だと思ってたけど、


 案外合理的かもしれない。

2006年 11月 13日 (月)

 最近、自分を肯定することが大事だなと思った。心の健康のために。肯定するといっても評価としてではなく、心情的に。評価としての肯定、心情的な肯定は僕の中で違う。

 たとえば、プラス思考って言葉がある。プラス思考は広く使われてる言葉だから使う人の間で微妙に定義が違いそうだけど、僕の想定する意味は、「たとえ失敗したとしても、そこから学ぶことができて良かった。」のように出来事をプラスに解釈する。最初に評価、心情、2つの肯定の区分を書いたけど、この場合は両方肯定。うまくいかなくても、嫌なことがあっても、出来事のとしてプラスに解釈して、結果的に心情的にも、気持ち的も肯定する。

 でも、このプラス思考に馴染めないw 失敗は失敗。嫌なことはやっぱり嫌でしょう。と感じてしまう。だって、うまくいかなくてもプラスに解釈にすると、結局何がプラスで何がマイナスか分からなくならない?まあ、この分からなくなるっていう疑問は後付けなんだけど。実際のところ、気持ち的に馴染めない。無理してる感が出てしまう。プラス思考が重い。作り笑いと似た感触なのかな。いいことがあったら喜び、嫌なことがあったら落ち込むのが自然・・・・だけど自分はダメだダメだってなるから(本当にダメだと思ってるし)ネガティブな思考へ言ってしまう。覇気が無くなってくる。無気力になってくる・・・・・

 自分はダメだ、ダメだという思考も行き過ぎると病理的な方向へ進むらしい。確かにひどい無気力な時期はまったく何も手につかなくなった。まともに生活していけるのかと思うくらい。精神的にも暗かったし。うつ病認知尺度チェックなるものをやってみた結果が・・・
 


  総合得点は 81 点です。中程度問題ありです。

以下の項目で一番得点の高い項目があなたの性格傾向です。
 ○「否定的自己認知」得点は 34 点です。危険域です。
 ○「対人認知」得点は 25 点です。問題ありません。
 ○「強迫的思考」得点は 22 点です。問題ありません。

「否定的自己認知」とは極端にへりくだって自分を悪く言う傾向があるということです。
「対人認知」とは他人の評価を気にするとともに依存性を意味します。
「強迫的思考」とは何事も完全でなければ気が済まない、いささか堅い性格です。


 僕がここまで書いてたのは「否定的自己認知」に該当するのか?しっかり当てはまってる(苦笑)あと、この「対人認知」「強迫的思考」も行き過ぎると良くないのも頷ける。他でも聞いたことあるから。僕はあまりその傾向はないようですね。

 
 話のまとまりがなくなってきたので一旦整理w 

 プラス思考(僕の想定する)まとめ

 前提    評価(成功か失敗か)が心情(喜ぶか落ち込むか)に結びつく。
        評価=心情

パターン  例)失敗したおかげで勉強になった。
        失敗した(出来事)→プラスに解釈する(評価)→落ち込まない(心情) 

違和感   「失敗した(出来事)→プラスに解釈する(評価)」この部分
         なんでもプラスに解釈すると評価軸がおかしくならないか?

 プラス思考をするメリットの前提に評価(成功か失敗か)と心情(喜ぶか落ち込むか)が一致がある(悪いことがあったら落ち込む)。出来事→評価・解釈→心情・気持ちの流れを想定している。感情がが否定、否定に向かうとよくないので、失敗した経験(出来事)をプラスに解釈して(評価の段階で)、落ち込まないようにする(心情)。ただ、僕は「失敗した(出来事)→プラスに解釈する(評価)」の部分に違和感を感じる。

 違和感の中身。評価は方向性を決めるものって考えがある。「あれはダメ、これはいい」があるからいい方向を舵をとろうとする。「あれもこれも全部いい」にしちゃうと羅針盤が狂わないかな?ともかく違和感がある。


 そこでタイトル「心情的に肯定」は評価と心情が分離してもいい。評価の面でダメでも、ダメなところは認める。ダメでもいい。感情的には無条件で肯定する。

 心情的に肯定するまとめ

  前提    評価(成功か失敗か)が心情(喜ぶか落ち込むか)は分離してもいい
         評価≠心情

パターン  例)失敗は失敗でも落ち込むことはない。
        失敗した(出来事)→妥当に解釈する(評価)→落ち込まない(心情) 

 違和感  うまくいかないことを自覚してるのに気持ち的に肯定することに違和感はない?


 
しかし、うまくいかなった・・・・・のに肯定するのはそれこそ違和感があることかもしれない。人それぞれだと思うけど。端的にいうとこの場合、気持ち的に肯定する理由がない。ダメだったなら落ち込むのが自然・・・・・・なんだけどそこは肯定するw
 実は理由がある。結局出来事自体とは因果はないけど、こころの健康のためという理由が。これは大きい。落ち込む→うまくいかない→無気力→うまくいかないの悪循環にならないためにも。
2006年 11月 10日 (金)

 僕はまだ学生で正社員として雇用されたことはない。バイトなら経験がある。
 その範囲の話です。
 
 上司が部下を叱ることがあっても、逆はまずない。
 先輩が後輩を叱ることがあっても、逆はまずない。
 親が子を叱ることがあっても、逆はまずない。
 先生が生徒を叱ることがあっても、逆はまずない。

 少なくとも小中時代を思い出してみると、先生を叱る小中学生は見たことないw
 もっとも、最近は変わってきつつあるのかな?僕の大学では学生が教員を評価する仕組みがあって、授業の評価アンケートなんてのもあるけど。

 大概は目上の人が注意する。目上の人のほうが経験を積んで偉いから正しい。
 本当にそうなのだろうか。常に?
 「正しさを伝える人」と「正しさを受け取る人」、関係性が固定している気がする。


 2通りの解釈が浮かんだ。

 『目上の人は経験を積んでるから正しい。目上の人は下の人より正しい人。』
 『目上の人は権力をもってるから正しい。権力があるほうが正しくなる。』
2006年 11月 09日 (木)

 最近、自己防衛機能が稼動している。
 嫌なことを考えないようにしてる。
 考えても鬱になるだけだし意味ない事は忘れればいいんだって気づいた。

 しかし、考えないようにしようとすればするほど泥沼にはまるのもありえる。

 コツをつかんだ。
 回避。
 考えないようにしよう、しようと必死にもがくことは、関心を持っているともいえる。
 関心を逸らす。興味をなくす。

 
 心配なことは嫌だけど本当に重要なことを忘れはしないか?
 記憶が穴だらけにならないか?

 大丈夫。
 本当に重要なことは忘れようにも忘れられないし
 表面上忘れていても、回想して、大丈夫な時期になったら思い出せる。


 考えない 忘れる

 
 
2006年 11月 07日 (火)
僕はが怖くないです。この記事を書いてる今現在。
 でも自殺は考えてません。

 「=怖いこと」という図式が一般的だとしたら、「を恐れない」ことは勇気があること。あるいは、が怖くないって書くことは勇気を誇示しているように解釈されることもあるでしょう。僕がブログで2番目に書いた記事、「自殺」でコメントを下さったタニシさんもを選択することは勇気がいると感じてるように見受けられます。

 でも、が怖くないのは勇気があるからではなく、生に対して臆病だから。
 
 生と死が表裏一体とすると、僕は生に対して執着が薄いのです。昔、いい思い出がない。将来、先行きが暗い。ともすると、生きることに否定的になる。生が嫌なら?残った選択肢は死です。

 だからといって自殺は考えていません(誤解を招きそうなので強調)
 まず、僕に対する莫大な養育費を支払った親に申し訳ない。義理と呼べる感情でしょうか? 
 あと、僕が今死んでも、葬式に来る人は少ないと思います。知人、友人が少ないし、同級生との関係も薄いので。葬儀の故人として、気まずいです。正直僕はそれほどたいしたことないですけど、家族はとても気まずいでしょう。これは見栄という感情でしょう。

 実際問題、死んでしまえば生きているときの価値観も関係なくなる気がします。死後の世界が無であれ、天国や地獄であれ、輪廻転生であれ、清算されますから。でも、義理や見栄にとらわれているのは、僕が生きてる間の価値観から抜け出せない、ということなのかもしれません。なので、自殺はまったく考えてないです。

 この記事、自殺志願者を代弁しているように読まれている方もいらっしゃるかもしれませんが、そのような意図はまったくないです。個人的な気持ちとして書きました。他の方は分からないので。

 僕が死にたいと思ってる時期だったら、Mr.Childrenの曲『HERO』であった

  例えば誰か一人の命と
 引き換えに世界を救えるとして
 僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ
 
 
こんな状況なら名乗り出るでしょう。みんなを救いたいという尊い自己犠牲というより、この場合なら、僕の死は肯定されます。死にたいけど死ねない人間にとって好都合になり得ます。そんなことを考える自分は特別だと微塵も思ってません。日本には名乗り出る人が多数いて、一人の命に立候補しても、なかなか選ばれない事態を想像するからです。
2006年 11月 04日 (土)

 ブログのタイプを3つ考えてみた。
 日記タイプ-その日の出来事など、タイムリーな記事を書く。
 エッセイタイプ-時系列の影響はあるものの、日記型ほどじゃない。思ったことを書く。
 テーマタイプ-たとえば日本史とか。テーマに沿って書く。テーマによって時系列が重要か変わる。

 いきなり、3つのタイプを例示したけどこの分類が網羅してるとも、画期的だとも思わない。なのに、なぜ書いたか?この次のパラグラフで言いたいことを説明するための部分。


 要は、僕がエッセイタイプに近いこと。タイマー投稿でまとめ書きがしやすくなって良かった。これが言いたかった。FC2ブログの管理画面を見たことない方はタイマー投稿ができるようになったこと、恐らくご存知ないでしょう。タイマー投稿とは記事に公開する時刻を指定することで、任意の時刻に公開できるようになった。我ながら分かりにくい説明。ビデオを想像してみてください。以前は、放送してる時間に録画ボタンを押さないといけなかったのが、タイマー予約を使えるようになった。例えとして間違ってないですよね?

 日記タイプに近いブロガーはタイムリーな記事を公開したいので、「書いてすぐ公開」になりやすいでしょう。僕は時系列があまり関係ない記事を多く書く。あとまとめ書きしたいタイプ。
 たとえば1月1日に5つ記事を書いたとしましょう。1月1日に5つ記事を公開するか?1月1日~7日の間で1、2、3、5,7日の5日に分けて投稿するか?読む側だと、あまりこだわりはないんですけど、書く側としては後者、1月1日~7日の間で1、2、3、5,7日の5日に分けて投稿したいんですよね。自己満足の問題w 更新間隔を空けたくないってことかな。タイマー投稿以前は、1月1日に5つ記事を書いても1、2、3、5,7日の5日、管理画面を開いて投稿の設定をしなければいけなかった。それで、まとめ書きしたくてもわざわざ投稿だけするために管理画面を開くのは面倒なので、あまりしませんでした。タイマー投稿ができてからは、1日に設定すれば後は自動。いやー最高です。

 ちなみにこの記事も公開予定は11月 4日ですが、10月29日に書いてますw


 まとめ書きタイプで更新間隔を空けたくない方はタイマー投稿をご利用してみては?(ちなみにFC2しかタイマー投稿は確認してません。他のブログサービスでは利用できるか分かりません。)
2006年 11月 02日 (木)

 制度に対して。
 社会に対して。

 議論する場合、3つに違った次元に分ける必要があると思う。


 理想論-さまざまな制約を排したとき、どうすれば制度がベストか。
 現実論-現行の制度がある。その制度の下で現状がある。
      現実的にどう改善すればいいか。

 現行(現状)論(日本語的にピンとこないけど、流れからこの表現を使いました。)
      制度の良し悪しはあるけど、その制度の下にいる人はどうすればいいのか。


 そして、3つの関係性はまず、理想論がある。理想論はすべて実現できるか限らない。しかし、理想がなければ、現実論の指針が見えない。理想論を指針としておきつつ、実現可能性が高い部分を現実論に還元する。
 現実論と矛盾していても、特定の制度の下の現状で生きていかなければいけない場合がある。人がいる。矛盾が見えていても、次の行動の選択をせまられる。ここでどうすればいいかは、現行論。
 理想論→現実論→現行(現状)論。この関係性が僕の考えるベスト。

 
 3つが混在する問題点

 現行(現状)論が理想論に置き換わる。
 
  単に保守的なことが論拠になる。「こうだったんだから、これがいいんだ。」現行の制度の下、現状を肯定したい心理から、現行(現状)論を肯定。理想論=現行論になる。現実論の現実を改善していく流れが妨害される。

 理想論と現実論、現行(現状)論とのすれ違い
 
理想論を現実論として語ってしまうと、そんなの無理、と現実論サイドから否定される。理想論として、現実論の指針として役立つかもしれないのに。また、理想論をそのまま現行(現状)論として考えると、実際、特定の制度の下の現状で生きていかなければいけない場合、不利益な選択肢になるかもしれない。



 とまあここまで具体的な事例を出すべきだとも思ったけど、情報量が少なく書けなかった。知識のインプットが足りないことを痛感。
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