絶望からスタートするブログ
基本的に独り言です。自分による自分のための言葉です。気分を害される方は読まないことをお勧めします。あなたの気を悪くすることは僕の本意じゃないので。
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2006年 09月 30日 (土)

 僕は最近4:00~5:00寝て、13:00~14:00に起きる生活をしている。典型的な夜型生活。8:00とか9:00に起きようとするけど、起きたらこの時間超ねむい。そんな生活リズムを隠すために記事を更新した時刻は隠してあるw

 最近一日に2箱以上喫煙してしまう。煙草吸ってやる気出そうとするけど、逆にダラダラする。ストレスの捌け口。

 自炊はしていない。面倒で。食事とるのも面倒だけど、腹が減って仕方がないときはコンビニ弁当を買って食う。不規則でバランスが悪い食生活。

 まったく運動はしていない。最近煙草のせいかすぐ息切れする。

 こんな生活をしてる自分。

 生活習慣病ってまさに俺のためにあるような言葉じゃないか!

 
今のところ長生きはしたいと思わないけど、不健康なのは苦しいから嫌だ。健康に早死したいといったところかw 長生きを望む人生になれたらいいけど。

 数ヶ月前に生活習慣を改めようと思って「生活向上計画」というカテゴリーを作った。改善されてないし、この記事が初投稿。

 とりあえず、
  禁煙。朝6時に起きる。自炊して三食食べる・・・・

 こんな目標立てたところで絵に描いた餅だけど、絵にだけでも描いたほうがいいと思ってる。

 とりあえず、さっきスーパーで野菜と肉買ってきたよ。
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2006年 09月 29日 (金)

 不可能を可能にする。
 なんか凄い。この言葉好きだ。

 でも、本当に不可能な事はやっぱり不可能だと思う。僕がこれから100mの世界記録を出すことは無理な気がする。たとえこれから最高のトレーニングと管理生活をしても。煙草吸いすぎて心肺機能落ちてるしw そんな環境すら整えられないし。厳密に言えば、可能性が低かったことを可能にする。こんなところか。

 そのイメージ。思考実験。
 優勝する確率がみんな同じA、B、C、D、E、F、G、Hの8人でトーナメントしたとする。Aが優勝する確率は100÷8だから・・・・・12.5%か。87.5%無理。計算合ってるよね?
 参考までに
  16人制トーナメントはその半分の確率で6.25% 約94%無理。
  32人ならAが優勝するのはそのまた半分で 約3% だいたい97%無理。

 不可能を可能にすることは厳密には不可能じゃなく可能性が低いことを可能にすることだと書いた。32人の優勝する確率が同じトーナメントの中でAが優勝するケースを考える。

 トーナメント開始前は優勝確率約3%。 97%無理。
 1回戦を勝つ確率は50%で勝てば、残り16人だから優勝確率は6%に上がる。それでも、約94%は無理。
 2回戦も50%の確率で勝てば 残り8人で 12.5%
 さらに勝てば 25% ベスト4。
 ベスト4で勝てば 決勝で50%。
 決勝で勝てば・・・優勝。

 97%無理なことでも50%の試練を5回潜り抜けば(2の5乗は32ってことですね)3%の遠かった優勝に手が届く。「不可能を可能にする」って実際的な意味ではこういう感じなのかな。97%無理って言われると、絶対無理な気持ちになるけど、50%を5回ならたまにやれそうな気がする。確率のマジックw

 こんなの思考実験だ。特殊な1つの事例を想定しただけ。そもそも優勝確率が皆等しいトーナメントなんていかにも思考上のサンプルである。

 だけど、97%無理なことでも、50%×5回で、32回やれば1回の確率で達成できるって、なんか勇気出るなあ。それでいて 不可能を可能にする ことに夢を感じる。ロマンを感じる。


 実際のところ、僕が理想が高いわりに実行力の少ない人間で・・・・そういう人間の願望は不可能な集まりになっちゃってて、だから、不可能に囲まれた人間は 不可能を可能にする と思いたいし、不可能を可能にすることに意義が感じられたら、実行力も上がるんじゃないという、損得勘定?も働いていてこういうこと書いてるのだろう。

 トーナメントの計算部分は僕にとってまじないみたいなもんだ。
 後づけの理由。でも、信じたい。人間は信じたいことは信じやすくなるらしい。

 くどくど書いたけど 不可能を可能にする 僕にはいい言葉だと思えるわけです。
2006年 09月 28日 (木)

 絵に描いた餅
 言うは易く、行なうは難し
 口だけなら塔がたつ

 ↑のことわざ、多少間違いがあるかもしれませんが(汗)、これらは口でいうだけなら簡単。でもやるなら難しいってことですよね。

 なんとなく「口だけじゃなくて行動しろ」とも言われてる気がする。

 しかし、本当に自信がなくなってくると、餅を描くことすらできなくなる・・・・・・僕は怠け者。毎日、夏休みをネットを徘徊して、タバコ吸って、パソゲーやって、自炊もしないでコンビニ弁当で寝てるだけの日々。

 そんな生活で何もできないんじゃないかと思えてくる時がある。本当に何もかも。

 一生禁煙できないかもしれない。もう二度と自炊できないかもしれない。冷静に考えると今後1週間で禁煙は無理でも、一生のうちならできると思える(これも甘いのかな)。二度と自炊しないと考えるほうが非現実的だろう(多分)。

 自信喪失も行き過ぎると本当は、自然にできることさえ、ゴミをちゃんと出すことさえ、役所に住民票を取りにいくことでさえ、もうできないんじゃないかって思えてしまう。

 絵に描いた餅を咎められるのは、実物の餅を作れるかどうかで悩むレベルの話。

 とりあえず、実物の餅を作ることは無理でも、絵だけは・・・・
 描けなくなるより描けるようになったほうがいいと思う。

 まず、絵に描いただけの餅を肯定して、そこから・・・・

 これは頭でっかちな性格で絵に描いてから実行に移す僕の場合の話です。
 いきなり、実物の餅を作れる人は、それはそれで素晴らしい。
2006年 09月 27日 (水)

 自分を遠隔操作する自分になりたい。

 現実がモニタ内のゲーム(詳しく書くと完成度が下がるから読んでる方はゲームの仕様を脳内補完してください)で僕がモニタ内のゲームのキャラになってそれを操作する人になりたい。

 昨日「ホラー映画理論」で書いたように、主観!現実(語弊がありそうだが便宜上)だといっぱいいっぱいになってしまう場面でも、画面の中の人を観る感覚で操作したい。画面の中の怠け者の僕に掃除コマンドを実行させる。モチベーション低下はパラメータで調整。こういうことを書くのは傷つきたくないだけなのかもしれない。我慢したくないだけなのか。

 だったらMMOやれよと言われそうだが、それとも違う。現実の僕から抜け出したいのだ。離れたとこから僕を操作するくらいでちょうどいい。主観だと辛くても、主観から抜け出して、第三者として僕を動かしたい。

 主観から抜け出せない恐怖。

 客観的に自分をみるって難しいと思う。自分とは常に主観の中にいるから。客観には、中立的な立場という意味と、主観の対義語として外側から観察する意味の2種類思い浮かんだけど、後者の話。対象として。常に主観の檻に入れられてる僕が、僕を対象化したい。

 リアルタイムでそれは難しい。過去の自分を対象化して、そこから・・・・か。
2006年 09月 26日 (火)

 前に書いた記事「自分の人生だから辛い」の中盤くらいに書いてたことをもっと詳しく。
 内容はホラー映画でみてる分には楽しいけど、現実にそういう状況になったらなぜ嫌か。


 怖いホラー映画、好き嫌いはあると思うけど好きだったとして。

 怖い映画の主な魅力は登場人物の恐怖に感情移入することだと思う。このとき、恐怖は快感だ。スリルが欲しい。

 でも、多くの人は現実にジェイソンに追い掛け回されたら嫌だろう。ある意味それが究極のスリルと言えるのに。この違いは何?
 すぐ思いつくのは映画で見てる分には実際殺されないという保証があるから。安全を確保した上の恐怖なのかな。安全を確保しつつもそれを忘れて恐怖を感じたいという微妙な。いくらスリルが欲しいからといって、事故の危険があるジェットコースターに乗りたくないw

 それと恐怖とともに感じる(であろう)焦燥感は不快(僕にとって)。

 リアルに書きすぎると個人情報になるから僕の体験を少し改造して(ニュアンスは変えてませんよ)書くと、こんなことがありました。
 締め切り今日のプレゼン、結構重要な。しかし、怠けていて何も準備をしていない。発表は3時間後。準備期間2週間レベルだから、まともにやって終わるはずがない。やってませんって言ったらメチャクチャ怒られそう。しかたなしに、ネットで情報を適当に集め、ほぼパクリでパワーポイントを仕上げる。もう時間がない。話す原稿をまとめる時間はないし、パワーポイントの内容も酷い。それでも時間が来たからプレゼンしなきゃ。
 この状況はある意味サイコスリラー映画のようである。(僕のなかで)しかし、こんな状況望まないw サイコスリラー映画を見る分に劇中人物が追い込まれるのをみるのが楽しい。しかし、実際なったら嫌だ。それは、ドキドキとか快感になる感情以外に、こんな状況嫌だという焦燥感(これは僕の中で不快な感情)があるから。映画で観てる分には意識してないだろうけど、フィルターでふるいわけるように快感の部分だけ感じられるのでしょう。

 「自分の人生だから辛い」の中では記事全体の流れから”主観に入ると辛い”という話にまとめてたけど、今考えるとちょっと違うなあ。なんだろう?

 ホラー映画じゃなくても、恋愛ドラマでupdownが激しいの、観てる分にはいいけど当事者は大変そう。
 あーでも正の感情だけの場面ならドラマで鑑賞するより現実が勝る。

 今、まとめるならこんな感じかな。
 現実は感情のいいとこどりが難しい。
 でも、場面によって現実の方がいいときもある。
2006年 09月 25日 (月)

 僕は頭でっかちな性格だと思う。
 行動力がない。頭の中で処理した後が続かない。

 物心ついたときから、というかつく前からそうだった。

 変わりたかった。
 動き出さなければはじまらない。机上の空論はあてにならない。
 何も進んでいない。

 でも、その部分は変わらない。
 生まれてからほとんどそのスタイルだったから。

 人格の大手術を試みるのは大変だ。
 今まで蓄積されたものを捨てて、新しい活動パターンに移行しなきゃいけない。

 だから、頭でっかちな性格のままでいい。
 もう少し、考えたことを実行に移せれば。
 もう少し、行動の中から何かを導き出せれば。
 そこから頑張ってみよう。

 今までを全部リセットしてゼロからスタートする、それはとても魅力的。
 環境、人格、能力・・・・今までのことは現在も引きずってる。
 全部リセットすることは、
 今までの中途半端に手にしてきたものすべて無に変えることを意味する。

 納得はいかないけど、現状を嘆くけど、満足いかないけど、
 中途半端に形作られた自分を消さないで、どうにか生かす方向で。

 ゼロからスタートとか、今日から新しい人生のはじまりとか、
 僕にはありえない。ありえる場合もあるだろうけど。

 納得いかない素材ではあるけど、
 それを少しずついじっていくしかない。
2006年 09月 24日 (日)

 この記事は前に書いた究極の疑問の続きです。自分なりの考えがまとまりました。まえの「究極の疑問」でkenさんからコメントいただいて、そのコメントとまた違う結論なんですけど、似たような概念を別側面から捉えているという感じなのかな。

 
 「疑問に答えをだすこと」は”理解できない概念”を”理解できる概念”にすること。

 あー、たぶんこの記事うまく言語化できない。僕の表現能力だと。感触はつかんでるんだけど。正しいかどうか?分からない。自己基準で納得した話ということで。続きを読む以降でその感触をできるだけ書き記せればいいなあ。
2006年 09月 23日 (土)
最近、更新頻度が減ってます。

 前は、むしろブログに時間かけすぎてそれが現実逃避というか、怠けてる一環だからもっと更新頻度自然に減ればいいと思ってたけど・・・・今頻度が落ちてるのはもうブログ書く気力すら湧かないって状態です。俺、卒業できんのかな↓

やる気がでない→どうやったらやる気でるのか考察→うまくいった?→またすぐ無気力
→気分転換しよう→気分がよくなった→自炊など雑務をしよう→また無気力

 無気力ループ、廃人生活・・・・・・


 結局僕はブログ始めた時期からずっと無気力だったわけです。正直、モチベーションをあげようと思ってこんなタイトルで始めた節もあるんですが。

 そこで詭弁ぽいけど、最初のモチベーションはやる気を探すことw

 正確にはやる気が出る自分を探す、物事からやる気がでる対象を見つける。やる気が出なくても取り組んで、やる気を探すことに必死になる。

 脳内理論じゃ役に立たないって分かってますよ?
  
 ゆるく堕ちてくのは嫌だ。だから、なにか解決策みたいなもの書きたくなる。

 そろそろ頑張んないと、ここ半年くらいずっと思ってるんだけど。
2006年 09月 13日 (水)

 「なぜボールは地面に落ちるのだろう?」

 重力があるから。

 「なんでブログっていうんだろう?」

 ウェブログの略。

 「なぜ勉強しないといけないんだろ?」

 いい大学→いい企業に入るため?
 教養を身につけるため?


 疑問があって、それを解決する答えがある?・・・ない場合もあるかもしれない。
 答えって理由や原因に近いのかな。
 でも、なにをもって答えとしているんだろう?

 「どうして英語を身につける必要があるの?」
 
 国際化の時代だから。
 
 「どうして国際化の時代になったの?」

 IT、移動手段の発達など文明が進化したから。

 「どうして文明が進化したの?」

 科学技術の発展によって。

 「どうして・・・・・」

 どうして・・・・はどこまでも続くかもしれない。それでも”答え”として思考をストップできるのはどうして?疑問、それに対する答えって何?言い換えると疑問答えという思考過程を分かりやすく説明すると?

 
なんとなくその疑問に対する答えのイメージはある。”疑問”で表されてる現象(事象)が不可解で、不透明で、認識しにくくて、”答え”はもっとはっきり見える形でそれを認識しやすく、はっきりと見える形にしたもの、”疑問”の現象の関係性を明確にしたもの・・・それは不可解な現象の原因を示すことで、それを関係性の中に収める、という感じはある。

 でも自分で言ってていまいちピンときてない。

 そもそも疑問、それに対する答えって何?という”疑問”自体が疑問答えという思考過程の中に組み込まれている。ということは?いや、だからどうとか全然言えない。

 説明できそうでできない。

 ちょっともどかしい。

 続き
2006年 09月 12日 (火)
 久しぶりの更新です。前の記事のコメント欄にも書きましたが、更新停止中は実家に帰省したり、集中講義を受けてたりしてました。明日もあるはずなんですけどね、集中講義・・・
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