絶望からスタートするブログ
基本的に独り言です。自分による自分のための言葉です。気分を害される方は読まないことをお勧めします。あなたの気を悪くすることは僕の本意じゃないので。
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2006年 11月 02日 (木)

 制度に対して。
 社会に対して。

 議論する場合、3つに違った次元に分ける必要があると思う。


 理想論-さまざまな制約を排したとき、どうすれば制度がベストか。
 現実論-現行の制度がある。その制度の下で現状がある。
      現実的にどう改善すればいいか。

 現行(現状)論(日本語的にピンとこないけど、流れからこの表現を使いました。)
      制度の良し悪しはあるけど、その制度の下にいる人はどうすればいいのか。


 そして、3つの関係性はまず、理想論がある。理想論はすべて実現できるか限らない。しかし、理想がなければ、現実論の指針が見えない。理想論を指針としておきつつ、実現可能性が高い部分を現実論に還元する。
 現実論と矛盾していても、特定の制度の下の現状で生きていかなければいけない場合がある。人がいる。矛盾が見えていても、次の行動の選択をせまられる。ここでどうすればいいかは、現行論。
 理想論→現実論→現行(現状)論。この関係性が僕の考えるベスト。

 
 3つが混在する問題点

 現行(現状)論が理想論に置き換わる。
 
  単に保守的なことが論拠になる。「こうだったんだから、これがいいんだ。」現行の制度の下、現状を肯定したい心理から、現行(現状)論を肯定。理想論=現行論になる。現実論の現実を改善していく流れが妨害される。

 理想論と現実論、現行(現状)論とのすれ違い
 
理想論を現実論として語ってしまうと、そんなの無理、と現実論サイドから否定される。理想論として、現実論の指針として役立つかもしれないのに。また、理想論をそのまま現行(現状)論として考えると、実際、特定の制度の下の現状で生きていかなければいけない場合、不利益な選択肢になるかもしれない。



 とまあここまで具体的な事例を出すべきだとも思ったけど、情報量が少なく書けなかった。知識のインプットが足りないことを痛感。
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2006年 09月 24日 (日)

 この記事は前に書いた究極の疑問の続きです。自分なりの考えがまとまりました。まえの「究極の疑問」でkenさんからコメントいただいて、そのコメントとまた違う結論なんですけど、似たような概念を別側面から捉えているという感じなのかな。

 
 「疑問に答えをだすこと」は”理解できない概念”を”理解できる概念”にすること。

 あー、たぶんこの記事うまく言語化できない。僕の表現能力だと。感触はつかんでるんだけど。正しいかどうか?分からない。自己基準で納得した話ということで。続きを読む以降でその感触をできるだけ書き記せればいいなあ。
2006年 09月 13日 (水)

 「なぜボールは地面に落ちるのだろう?」

 重力があるから。

 「なんでブログっていうんだろう?」

 ウェブログの略。

 「なぜ勉強しないといけないんだろ?」

 いい大学→いい企業に入るため?
 教養を身につけるため?


 疑問があって、それを解決する答えがある?・・・ない場合もあるかもしれない。
 答えって理由や原因に近いのかな。
 でも、なにをもって答えとしているんだろう?

 「どうして英語を身につける必要があるの?」
 
 国際化の時代だから。
 
 「どうして国際化の時代になったの?」

 IT、移動手段の発達など文明が進化したから。

 「どうして文明が進化したの?」

 科学技術の発展によって。

 「どうして・・・・・」

 どうして・・・・はどこまでも続くかもしれない。それでも”答え”として思考をストップできるのはどうして?疑問、それに対する答えって何?言い換えると疑問答えという思考過程を分かりやすく説明すると?

 
なんとなくその疑問に対する答えのイメージはある。”疑問”で表されてる現象(事象)が不可解で、不透明で、認識しにくくて、”答え”はもっとはっきり見える形でそれを認識しやすく、はっきりと見える形にしたもの、”疑問”の現象の関係性を明確にしたもの・・・それは不可解な現象の原因を示すことで、それを関係性の中に収める、という感じはある。

 でも自分で言ってていまいちピンときてない。

 そもそも疑問、それに対する答えって何?という”疑問”自体が疑問答えという思考過程の中に組み込まれている。ということは?いや、だからどうとか全然言えない。

 説明できそうでできない。

 ちょっともどかしい。

 続き
2006年 08月 08日 (火)

 絶対的な正しさなんてない。しかし、絶対的な正しさなんかなくて、正しさは相対的なものだ・・・・ということ自体、「絶対的な正しさなんてない」ということを「絶対的に正しい」と信じている。だから、「絶対的な正しさなんてない」ということを絶対的に信じることもできない。もう何を信じていいか、わけが分からない。

 皆さんは↑の文章について、どう考えますか?

 興味と暇がある方は考えてみてください。
 さらに興味と暇のある方、[続きを読む]で僕の考え方を読んでください。ちなみに長いです。
2006年 07月 02日 (日)

「なぜ働かなければいけないのか?」とか
「なぜ勉強しなければいけないか?」とか
「生きる意味とは?」とか
「なぜ自殺してはいけないのか?」とか
「なぜ人を殺してはいけないのか?」とか

 あらかじめ”答え”(目的地)が決まっている問い(出発地)の立て方はどうでしょうか?僕には根拠が曖昧だけどなんとか信じたい答えに到達しようと、理由付けしようと、思考の道筋を制限しているように思えます。

 紛らわしい書き方をしましたが、これは批判(非難)ではないですよ。あらかじめ目的地を決めておくことは、思考の道筋、到達点が質問者にとっての危険領域にいかないために有効ですから。
2006年 06月 30日 (金)

 僕はよく後悔をする。もし大学入学からやり直せたらとか、もっと欲を言えば高校入学時から、さらに欲を言えば・・・・・・
 後悔しても意味はない。時間は戻らない。分かってる。分かっているけど、今現在の経験があればやり直せばうまくいく気がする。でも高校入学からやり直せたとして周りが高校生の中、大学生の経験で高校生活過ごしてうまくいって当たり前で・・・・それは公園でサッカーしてる小学生の輪に中学生が割り込んで、サッカーうまいのを喜ぶようなもので、自分だけ特権が与えられるわけないよね・・・・・

後悔する思考って「今日」という日を結果とか中間地点だと思ってるからだと気づいた。

「過去のある日」~後悔する期間~「今日」(今日をとりまく状況がよくない)
「過去のある日」~「今日」(この状況では理想に届きそうもない)~「理想とする未来の日」
「今日」をとりまく状況とは、今までの思い出、自分の能力、資産、対人関係など・・・

 つまり「今日自体」や「今日と理想との距離」に悲観してるから、「過去のある日」から「今日」までやり直したいわけだ。もしくは「過去のある日」から「今日」までもっと充実した思い出を作れたかもって。

 だが過去は変えられない。変えられるのはこれからどう過ごすかだけ。だから、「今日」を中間地点だとか結果だとか考えるのを止そう。スタートはいつだって「今日」、もっと言えば始まりはいつだって今という瞬間。この考え方だと

「今日」                        「理想とする今日」(があって)
「今日」   「理想とする今日」(うまくいけばだんだん今日が理想的になる)

 うまくいかなければ、「理想とする今日」を先延ばしにするか、目標を下げるかするだけ。はじまりはいつだって「今日」。「今日」は常に過去を引き継いでいる。そして「今日」を手が届きそうな「理想的な日」に近づける(正確に言えば日常生活を)。ただ、これを繰り返す。しばらくは。届きそうになければ修正する。単純にそれだけ。
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