絶望からスタートするブログ
基本的に独り言です。自分による自分のための言葉です。気分を害される方は読まないことをお勧めします。あなたの気を悪くすることは僕の本意じゃないので。
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2006年 11月 13日 (月)

 最近、自分を肯定することが大事だなと思った。心の健康のために。肯定するといっても評価としてではなく、心情的に。評価としての肯定、心情的な肯定は僕の中で違う。

 たとえば、プラス思考って言葉がある。プラス思考は広く使われてる言葉だから使う人の間で微妙に定義が違いそうだけど、僕の想定する意味は、「たとえ失敗したとしても、そこから学ぶことができて良かった。」のように出来事をプラスに解釈する。最初に評価、心情、2つの肯定の区分を書いたけど、この場合は両方肯定。うまくいかなくても、嫌なことがあっても、出来事のとしてプラスに解釈して、結果的に心情的にも、気持ち的も肯定する。

 でも、このプラス思考に馴染めないw 失敗は失敗。嫌なことはやっぱり嫌でしょう。と感じてしまう。だって、うまくいかなくてもプラスに解釈にすると、結局何がプラスで何がマイナスか分からなくならない?まあ、この分からなくなるっていう疑問は後付けなんだけど。実際のところ、気持ち的に馴染めない。無理してる感が出てしまう。プラス思考が重い。作り笑いと似た感触なのかな。いいことがあったら喜び、嫌なことがあったら落ち込むのが自然・・・・だけど自分はダメだダメだってなるから(本当にダメだと思ってるし)ネガティブな思考へ言ってしまう。覇気が無くなってくる。無気力になってくる・・・・・

 自分はダメだ、ダメだという思考も行き過ぎると病理的な方向へ進むらしい。確かにひどい無気力な時期はまったく何も手につかなくなった。まともに生活していけるのかと思うくらい。精神的にも暗かったし。うつ病認知尺度チェックなるものをやってみた結果が・・・
 


  総合得点は 81 点です。中程度問題ありです。

以下の項目で一番得点の高い項目があなたの性格傾向です。
 ○「否定的自己認知」得点は 34 点です。危険域です。
 ○「対人認知」得点は 25 点です。問題ありません。
 ○「強迫的思考」得点は 22 点です。問題ありません。

「否定的自己認知」とは極端にへりくだって自分を悪く言う傾向があるということです。
「対人認知」とは他人の評価を気にするとともに依存性を意味します。
「強迫的思考」とは何事も完全でなければ気が済まない、いささか堅い性格です。


 僕がここまで書いてたのは「否定的自己認知」に該当するのか?しっかり当てはまってる(苦笑)あと、この「対人認知」「強迫的思考」も行き過ぎると良くないのも頷ける。他でも聞いたことあるから。僕はあまりその傾向はないようですね。

 
 話のまとまりがなくなってきたので一旦整理w 

 プラス思考(僕の想定する)まとめ

 前提    評価(成功か失敗か)が心情(喜ぶか落ち込むか)に結びつく。
        評価=心情

パターン  例)失敗したおかげで勉強になった。
        失敗した(出来事)→プラスに解釈する(評価)→落ち込まない(心情) 

違和感   「失敗した(出来事)→プラスに解釈する(評価)」この部分
         なんでもプラスに解釈すると評価軸がおかしくならないか?

 プラス思考をするメリットの前提に評価(成功か失敗か)と心情(喜ぶか落ち込むか)が一致がある(悪いことがあったら落ち込む)。出来事→評価・解釈→心情・気持ちの流れを想定している。感情がが否定、否定に向かうとよくないので、失敗した経験(出来事)をプラスに解釈して(評価の段階で)、落ち込まないようにする(心情)。ただ、僕は「失敗した(出来事)→プラスに解釈する(評価)」の部分に違和感を感じる。

 違和感の中身。評価は方向性を決めるものって考えがある。「あれはダメ、これはいい」があるからいい方向を舵をとろうとする。「あれもこれも全部いい」にしちゃうと羅針盤が狂わないかな?ともかく違和感がある。


 そこでタイトル「心情的に肯定」は評価と心情が分離してもいい。評価の面でダメでも、ダメなところは認める。ダメでもいい。感情的には無条件で肯定する。

 心情的に肯定するまとめ

  前提    評価(成功か失敗か)が心情(喜ぶか落ち込むか)は分離してもいい
         評価≠心情

パターン  例)失敗は失敗でも落ち込むことはない。
        失敗した(出来事)→妥当に解釈する(評価)→落ち込まない(心情) 

 違和感  うまくいかないことを自覚してるのに気持ち的に肯定することに違和感はない?


 
しかし、うまくいかなった・・・・・のに肯定するのはそれこそ違和感があることかもしれない。人それぞれだと思うけど。端的にいうとこの場合、気持ち的に肯定する理由がない。ダメだったなら落ち込むのが自然・・・・・・なんだけどそこは肯定するw
 実は理由がある。結局出来事自体とは因果はないけど、こころの健康のためという理由が。これは大きい。落ち込む→うまくいかない→無気力→うまくいかないの悪循環にならないためにも。
≫ "心情的に肯定する" の続きを読む...
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2006年 11月 07日 (火)
僕はが怖くないです。この記事を書いてる今現在。
 でも自殺は考えてません。

 「=怖いこと」という図式が一般的だとしたら、「を恐れない」ことは勇気があること。あるいは、が怖くないって書くことは勇気を誇示しているように解釈されることもあるでしょう。僕がブログで2番目に書いた記事、「自殺」でコメントを下さったタニシさんもを選択することは勇気がいると感じてるように見受けられます。

 でも、が怖くないのは勇気があるからではなく、生に対して臆病だから。
 
 生と死が表裏一体とすると、僕は生に対して執着が薄いのです。昔、いい思い出がない。将来、先行きが暗い。ともすると、生きることに否定的になる。生が嫌なら?残った選択肢は死です。

 だからといって自殺は考えていません(誤解を招きそうなので強調)
 まず、僕に対する莫大な養育費を支払った親に申し訳ない。義理と呼べる感情でしょうか? 
 あと、僕が今死んでも、葬式に来る人は少ないと思います。知人、友人が少ないし、同級生との関係も薄いので。葬儀の故人として、気まずいです。正直僕はそれほどたいしたことないですけど、家族はとても気まずいでしょう。これは見栄という感情でしょう。

 実際問題、死んでしまえば生きているときの価値観も関係なくなる気がします。死後の世界が無であれ、天国や地獄であれ、輪廻転生であれ、清算されますから。でも、義理や見栄にとらわれているのは、僕が生きてる間の価値観から抜け出せない、ということなのかもしれません。なので、自殺はまったく考えてないです。

 この記事、自殺志願者を代弁しているように読まれている方もいらっしゃるかもしれませんが、そのような意図はまったくないです。個人的な気持ちとして書きました。他の方は分からないので。

 僕が死にたいと思ってる時期だったら、Mr.Childrenの曲『HERO』であった

  例えば誰か一人の命と
 引き換えに世界を救えるとして
 僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ
 
 
こんな状況なら名乗り出るでしょう。みんなを救いたいという尊い自己犠牲というより、この場合なら、僕の死は肯定されます。死にたいけど死ねない人間にとって好都合になり得ます。そんなことを考える自分は特別だと微塵も思ってません。日本には名乗り出る人が多数いて、一人の命に立候補しても、なかなか選ばれない事態を想像するからです。
2006年 10月 31日 (火)

  嫌でもやらなきゃいけないことがあって、それをどう実行していくか。怠け者の僕にとってはこのブログのテーマの一つでもありました。できる人からすれば、とにかくやれ、行動しろって話かもしれないけど、怠け者で頭でっかちな僕の場合、このブログで解決策の仮説を作っては、実行できず、忘却し、その繰り返し。

 どのぐらい怠け者かといえば、廃人生活になりつつあります。最近、部屋も散らかってるし、学業もシューカツも全然手をつけてないし、煙草は2箱以上吸うし、たいして授業とってないのに出席率は50%以下だし、自炊しないでコンビニ弁当ばっか買ってるし・・・・・

 別にネガティブな記事にしようとしてないですよ、これ。
 また懲りずに解決策の仮説を書く記事ですw

 嫌でもやらなきゃいけない事、行動に踏み切れないのは行動にネガティブなイメージがあるからだと思う。毎朝ランニングをしようと決めたとする。朝早く起きたはいいけど布団から出て寒い思いをし、めんどくさいランニングなんかしたくない。こういう感じかな。

 じゃあ、嫌なことを好きなことに変えるように唱えてみる。「俺はランニング大好きだ。早起きしてランニングするのは気持ちいい。」この方法は人によってはありなんでしょうけど、僕には無理。個々メンタルは違うでしょうし。これははねかえされる、弾力性。ランニング大好きだ暗示で4日間表面的に、早朝ランニング大好きなことにして、やったとしますよね?でも深層心理は変えられないというか、むしろ抑えつけられた嫌だ嫌だという気持ちの反動がある。もう1年くらいランニングしたくないってなる。ダメ人間?否定はしないけど。

 じゃあ、どう向き合うか。そこで思いつくのはサウナ。サウナ入ってる時間が気持ちいいというより、暑い空間から出たときの開放感。暑い空間を長く我慢したという自己満足。風呂上りのビールのうまさ(僕の場合です)。
2006年 09月 23日 (土)
最近、更新頻度が減ってます。

 前は、むしろブログに時間かけすぎてそれが現実逃避というか、怠けてる一環だからもっと更新頻度自然に減ればいいと思ってたけど・・・・今頻度が落ちてるのはもうブログ書く気力すら湧かないって状態です。俺、卒業できんのかな↓

やる気がでない→どうやったらやる気でるのか考察→うまくいった?→またすぐ無気力
→気分転換しよう→気分がよくなった→自炊など雑務をしよう→また無気力

 無気力ループ、廃人生活・・・・・・


 結局僕はブログ始めた時期からずっと無気力だったわけです。正直、モチベーションをあげようと思ってこんなタイトルで始めた節もあるんですが。

 そこで詭弁ぽいけど、最初のモチベーションはやる気を探すことw

 正確にはやる気が出る自分を探す、物事からやる気がでる対象を見つける。やる気が出なくても取り組んで、やる気を探すことに必死になる。

 脳内理論じゃ役に立たないって分かってますよ?
  
 ゆるく堕ちてくのは嫌だ。だから、なにか解決策みたいなもの書きたくなる。

 そろそろ頑張んないと、ここ半年くらいずっと思ってるんだけど。
2006年 09月 12日 (火)
 久しぶりの更新です。前の記事のコメント欄にも書きましたが、更新停止中は実家に帰省したり、集中講義を受けてたりしてました。明日もあるはずなんですけどね、集中講義・・・
2006年 07月 18日 (火)

 怖いもの知らず、何もかも恐れをなさないとか、度胸があるという意味で使われる。近い意味では強心臓。 「怖いもの知らず」もっと意味を考えてみると、怖いものを知らないから恐れない。怖さを知らないから怖くない、こういうこと?体操競技なんかで一度大怪我をしてしまうと、その恐怖が残って支障が出るらしい。

 ちょっと「怖いもの知らず」からズレるかもしれないけど、”ある事柄”について怖さを経験していなければ、もしくは未知の体験でそれが怖いっていう情報がなければ、”ある事柄”を恐れないはず。「怖いもの知らず」だと何もかも恐れないみたいだから、この場合「怖さ知らず」かな。

 忘却しようかな、怖かった記憶。逃げられることなら、逃げればいい。逃げられないことでも、どっちにしろ怖いなら、怖さを忘れていた方が軽減されるだろう。

 僕は臆病だけど、これからの経験に怖さを想像するのをやめる。事前に怖いって分かったからって、避けられないなら同じだから。恐れを感じるのはその時だけでいい。事前、事後には必要ないから。

 僕は辛いことが多すぎて、過去の記憶を沢山封印してる。案外、得意分野かもしれない。

 僕は臆病で怖がりなのは変えられないけれど、うまく忘れれば、”怖いこと”に遭遇してない時間「怖いもの知らず」になれるかもしれない。
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