絶望からスタートするブログ
基本的に独り言です。自分による自分のための言葉です。気分を害される方は読まないことをお勧めします。あなたの気を悪くすることは僕の本意じゃないので。
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2006年 08月 08日 (火)

 絶対的な正しさなんてない。しかし、絶対的な正しさなんかなくて、正しさは相対的なものだ・・・・ということ自体、「絶対的な正しさなんてない」ということを「絶対的に正しい」と信じている。だから、「絶対的な正しさなんてない」ということを絶対的に信じることもできない。もう何を信じていいか、わけが分からない。

 皆さんは↑の文章について、どう考えますか?

 興味と暇がある方は考えてみてください。
 さらに興味と暇のある方、[続きを読む]で僕の考え方を読んでください。ちなみに長いです。
冒頭に紹介した文でやってる”操作”は僕にはこう見える。

 まず、A「絶対的に正しいことはある」
     B「絶対的に正しいことはない」
と事象を2つに分ける。分けた後にAに疑念を持って、Bにしようとしたけど

 「絶対的な正しさなんてない」ということを「絶対的に正しい」と信じている。

BはAに含まれてたんじゃないかと言ってるわけだ。そして、


「絶対的な正しさなんてない」っていうことを絶対的に信じることもできない。
もう何を信じていいか、わけが分からない。
結果的にAになってしまったことをよく思わないが、Bを選択してもAに行き着くのでどうにもならずに悩んでいる。

 つまり、冒頭の文の思考操作を整理すると
  1.A、Bに分けて、AではなくBを選択したい。
  2.Bを選択するとAに含まれてると気づく。Aに行き着く。
  3.Aは信じられないが、A以外も思い浮かばず悩む。

僕はこの操作は考える対象から外れて、言葉遊びをしているようにも見える。
冒頭の文を考えた人の流れで思考を進めるなら↓のように考えたらどうだろう?

A「絶対的に正しいことはある」
 A1「特定の絶対に正しいことはある」
 A2「それはずばり”絶対的に正しいことはなく、正しさは相対的”ということ」 
B「???(Aに含まれないという立場)」

僕がBを???としたのは、冒頭の文章で考察した人(本当は書いたの僕だけど別の人として)の表現で、Aに含まれない立場について言及してほしいからだ。冒頭のような袋小路に迷わないために。僕が具体的な言葉で表現した場合、冒頭の文章で考察した人にとって、それはAに含まれてると解釈され、その解釈ではまた上記のような思考の袋小路に迷ってしまうかもしれないので。

 僕がこの問題について考えるなら、結論は
 A.特定の絶対的に正しいことの存在する、もしくは見つかる可能性は必ずある。
 B.絶対的に正しいことは存在しない。
 C.絶対的に正しいことの存在は確認できない類の問題である。
 の3つに分ける。結論のA、B、Cは僕にとって別の事象である。

 ただ、この分け方で僕が考察した結果、B、Cの結論が出た場合「それはAの”絶対的に正しい存在”に含まれる。」と反論されるかもしれない。僕が反論した人に別の事象であることを説明するのに、日本語にこだわらない。数学や論理学に疎いので、自製の図式、図表、記号などを用いて、それぞれの結論が僕にとって別の事象であると定義しうることを説明するだろう。(ちなみに僕のスキルのなさからブログでそれを表現できません)最終的には、反論した人の言語の世界ではすべてAに分類して構わない。しかし、僕の認識の世界では別の事象で定義しうる、というだろう。

 また、この間みたいに事例にたくさん言及するはめになったけど、結局この記事で僕が言いたいのは、あくまでも対象について、言語という道具で把握してるのであって、対象から離れて言葉遊びが一人歩きしてないか?と。今回の対象は明確に視覚化しにくい問題ではあるけど。言葉遊びの論理で解決することが必ずしも問題解決につながるわけではない。日本語の議論で文章的に美しい答えが、現実に正しいと言い切れるの?対象を見失わないで、思考対象をどう表現しているか留意しておくことが大切じゃない?

自分でも↑の部分は偉そうにいいすぎ感はある。ぶらうざはそんなこと言える立場なのか?しかし、実はこれは読者に対するメッセージというより、僕自身に対するメッセージであり、思考のための覚え書きなのでそう解釈していただけるとありがたい。僕自身も言語に囚われて思考しているのは否めないし。

補足1:この記事の要旨は対象を見失わないで、思考対象をどう表現しているか留意しておくことが大切ということであり「絶対に正しいこと」に関する問題において、例えば学術的な観点などから本記事の是非は確認できません。その点に見識のある方はご指摘くださると幸いです。

補足2:これは僕の邪推に基づく、架空の可能性ですがコメント欄で「じゃあ、結局ぶらうざは”絶対的に正しい”問題についてどう考えてるの?」という類の質問をいただいた場合、質問の仕方に応じて端的に返信できますが、この問題の完全な回答はすぐに返信できません。というのも、この問題については、この記事

あと、神経症かは知らないが高校時代に哲学的な問題を考えて半年くらい何も手につかなかった。寝てもさめても四六時中その問題について考え、授業も聞いてないし、TVも(たぶん)みてなかった。学校をその思考の世界で過ごし、帰ったら部屋に篭って考えてた。

と文中にあるような長期間考察した問題であるので、僕自身の回答をコメント欄に収まるような形ですぐに返信するのは難しいです。この問題については”僕なりの”ある程度納得できる回答を持ってますが、それが、社会的、学問的、等々別種の視点で正しさは保障されません。他人に共有可能な回答か分かりません。あくまで、僕の基準で僕がこの問題について考えすぎて発狂しないで済んだ回答であり、(すでに発狂してるかもしれませんが、狂ってる人間は自分で狂ってると言わないらしいので)独断的なものです。いずれ、自分の考えを整理するためにブログにまとめる可能性もありますが、すぐには書けません。

補足3:記事でボーダーを多用してテーブルを使わないのは僕のhtmlの不勉強に起因するものです。

補足4:この記事は予防線張りまくりで臆病だという意見があった場合、否定しませんw
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Comment
この記事へのコメント
[]
前提が間違っている気がします
「絶対的な正しさはある」の否定は
「絶対的な正しさはない」ではなく
「相対的な正しさはあるが、絶対的ではない」だと思う

ちなみに「絶対的な正しさはない」は矛盾じゃないかな?
2006/ 08/ 09 (水) 02: 45: 27 | URL | 鈴木 # -[ 編集 ]
[追記]
矛盾の先にあえて踏み込んでいくといった考えであれば
俺の脳みそでは役に立てなさそうです
すいません
2006/ 08/ 09 (水) 02: 59: 40 | URL | 鈴木 # -[ 編集 ]
[]
こんにちは
コメントありがとうございます
相対主義についてのこのような問題は、哲学ではけっこう聞かれますし、僕も基本的に同じ考えです
でも、ここまできちんと論理立てて考えられているのを見るのは初めてです。ぼくも見ならはないとw


>鈴木さん
はじめまして
いきなり失礼かもしれないですが、
「絶対的な正しさはない」と
「相対的な正しさはあるが、絶対的ではない」とは
結局おんなじことの様な気がするんですが・・・
どうでしょうか?

では。

2006/ 08/ 09 (水) 13: 00: 40 | URL | ささやん # -[ 編集 ]
[]
>ささやんさん
はじめまして
確かに同じです
そもそも前提をいじるっていうのは反則でしたね
2006/ 08/ 09 (水) 13: 35: 26 | URL | 鈴木 # -[ 編集 ]
[前提と前提での定義の仕方]
鈴木さん、ささやんさん、こんにちは。

今回の記事は「思考対象をどう表現しているか留意しておくこと」を考える素材として、前からひっかかっていた冒頭の問題を取り上げたんですけど、学術的に勉強されてる方などから視点では的外れな話の展開をしてないかという懸念がありました。哲学を勉強されてるささやんさんのコメントのおかげで、そう的外れな事は言ってないな、と安心できました。ありがとうございました。

鈴木さんはたぶん最初のコメントで「絶対的~」の否定は「相対的~」で「絶対的な正しさはない」とは別の事だと考えてたでしょうが、ささやんさんの指摘で「絶対的な正しさはない」と同じことだったという認識に変えられましたね。仮に「絶対的~」の否定は「相対的~」でそれは「絶対的な正しさはない」と違うことを曲げなかった場合、「絶対的~」の否定「相対的~」という切り口が成立するイメージを日本語で伝えるのは相当困難であったでしょう。

僕は記事内で後半「A.B.C」の結論の分け方を提示し、反論があった場合、
「自製の図式、図表、記号などを用いて、~しうることを説明するだろう。」「僕の認識の世界では別の事象で定義しうる、というだろう。」と強硬姿勢を貫いてますが、客観的に認識を共有できる形まで押し上げて整理するのは、かなり困難で、(ちなみに僕のスキルのなさからブログでそれを表現できません)と逃げ道をつくってますがw 僕には完全に客観的な形まではできないと気づきました。

ちなみに鈴木さんが前提がおかしいって言うことは反則じゃないですよ。記事自体が、前提と前提での定義の仕方について語ってる内容ですからね。

記事の付け足し的に思ったことは、こみいった議論をして、噛み合わないとき、議論をしてる人がそれぞれ、言語を使ってどう定義してるか検証することも、大切だと思いました。
2006/ 08/ 09 (水) 17: 08: 30 | URL | ぶらうざ # 3xs9owas[ 編集 ]
[]
こんにちは、度々お邪魔します。

自己言及のパラドックスのようだなぁと思って読んでいました(「この文章は“嘘”である」という文章が本当であった場合、「この文章は“嘘”」が本当であるなら嘘であることになる。もし嘘だとすると、「この文章は“嘘”」は嘘であるからこの文は正しいことになり、どちらにせよ矛盾が起きる)。

でも本当に重要なことは、ぶらうざさんの仰るとおりだと私も思います。言葉で定義できるものが全てであり、では言葉で定義できないものが「存在していない」というかといえばそうではなくて、言葉で定義できようができまいが“対象”は“対象”として言葉の定義や言葉遊びとは関係無く存在しているわけで・・・。
言葉で定義したり認識したり、それで議論をすることが悪いことではないし、むしろ必要だと私は思っていますけれども、言葉で表現すること、言葉の表現だけで問題を片付けることに捕らわれてしまってはいけいないな、と思います。

こういう思考過程こそがまさに「思考対象をどう表現しているか」、思考対象を表現する方法の一つに過ぎないのでしょうが・・・。
対象が実際にどう在るのかということと、対象をどのように認識して表現しているかということは全くそうだとは言えないものの、別のものなのだなと思いました。
2006/ 08/ 09 (水) 18: 10: 45 | URL | 禅舞 # 9DD8ZWDM[ 編集 ]
[対象と認識者]
禅舞さん、こんにちは。

僕も自己言及のパラドックスのようにメタ言語?とかの視点で考察されうる問題で○○論理学や○○言語学などで、厳密な分析はできるのかな、と思いながら書いてました。でも、僕はそのような知識はないので、自分の思考範囲内で考えてみました。

>言葉で定義できようができまいが“対象”は“対象”として言葉の定義や言葉遊びとは関係無く存在しているわけで・・・。

伝わってますね、言いたかった内容が。今回の話が例として的確だったかは自分でも定かではないけど、冒頭の内容は興味があったのでねじ込みました。「対象」と「認識者(その対象の)」という区分を想定すると、僕は記事では「認識者」について着目して、「対象」についてあまり言及してなかったけど、両者の関係を考察した場合の、「対象」側の側面について禅舞さんのコメントは触れてますね。その通りだと思います。

>対象が実際にどう在るのかということと、対象をどのように認識して表現しているかということは全くそうだとは言えないものの、別のものなのだなと思いました。
>言葉で表現すること、言葉の表現だけで問題を片付けることに捕らわれてしまってはいけいないな、と思います。

別ものであって、対象を言語などの手段で表現した内容。写像ですね。でも、それゆえ関連性があるから、全くそうだとも言えないのでしょう。対象を認識者の表現した内容においての解決にこだわりすぎて、『“対象”は“対象”として言葉の定義や言葉遊びとは関係無く存在しているわけで・・・。』←これから離れたとこにいく懸念ですね。

今回の記事は言ってしまえば、別に考えなくても日常生活にそれほど支障ない話で、自分以外の人がどれほど興味を持ってくださるのかな?と思ってたんですが、コメント頂いて、読んで下さってる人がいることが分かってよかったです。
2006/ 08/ 09 (水) 23: 00: 01 | URL | ぶらうざ # 3xs9owas[ 編集 ]
[]
こんばんは。
哲学のことは良く知らないのですが、そういったことを考えたことがあるようなないような部分の記憶に基づいた感触でコメントさせていただきます。

その問いの立て方は行き止まりで
もう一度考える気力がないので課程をすっとばして感触ですが
絶対的な正しさはあるという言葉はある。というところまでしか行けない。

「絶対的な正しさはない」は、具体的な対象Aから離れないと存在できないからです。
A=絶対的な正しさはあるとできれば、Aが存在することで絶対的な正しさは存在することになりますが、結び付けられないから「絶対的な正しさはない」可能性が存在するわけで。具体的なものと結び付けるまで、言葉としてしか存在できない。逆にA=絶対的な正しさはないとすると逆のことが起きます。
(あるとないが両立するかどうか。目の前にリンゴがある、リンゴに触れられる。さてリンゴはあるかどうか?という話はなしにしてください)

絶対に正しいものはあると絶対に正しいものはないという矛盾を解消する手段は、あるかどうか分からないという逃げの一手だと思いますが、
私の取った解消する手段が、絶対的な正しさはあるという言葉はある。絶対的な正しさはないという言葉はある。という形だったという話です。これが私なりのある程度納得できる回答ってやつで、道筋に関しては適当に読み流してください。むしろ無視してください。どこかで関係しているんですが、明らかに足りない部分がある。


>今回の対象は明確に視覚化しにくい問題ではあるけど。言葉遊びの論理で解決することが必ずしも問題解決につながるわけではない。
どのような対象と問題か計りかねますが、対象が貧富の格差とか彼女がいないことについてなのか。美しいとか正しいとかの問題で、私が醜いと言っても客観的な目によって美しいものは美しいことなのか。前者後者とも他者の存在によって言葉の外のことですから言葉だけで解決できるはずはないですし、逆に言葉の中だけのことなら言葉で解決できる可能性がありますが、ほとんど全ての対象は言葉+言葉以外なので言葉だけで解決できることが極少ないです。(言葉で伝えることを行動に、言葉を自分の思考の中だけのものに分類しています。)また言葉は影響を与えるので、言葉にした瞬間に別の何かに変わってしまうのも問題です。彼女がいないという問題で対象を彼女から心に移し、言葉によって、欲しい、からいなくてもいいと変えてしまうこともできます。これをすり替えではなくて解決と捉えれば言葉で何でも解決できますが。
以上のことが言葉遊びなら、私の自己顕示欲を満たし己の無学さを思い知らせたという影響しかありません。
ぶらうざさんがコメントが付いたことによって何らかのものが得られたら、言葉遊びで返した行動によるものです。
言葉遊びとは、目の前のリンゴは目の前にリンゴが存在するという仮定が成立する限りにおいて成立するといった類のものかと疑ったりしますが、言葉遊びとしては、その仮定が成立するから存在しているとしか理由がありませんが、余りにも無意味すぎるので可能性から排除しました。
明らかに拙いです。
2006/ 08/ 10 (木) 01: 59: 43 | URL | 楽園 # nts.E40U[ 編集 ]
[どこまでが言葉遊びか実はわからない]
楽園さん、こんにちは。

楽園さんもこの問題考えられた経験をお持ちのようですね。僕の場合、解決しなければいけない病的な執念にかられていました。

>「絶対的な正しさはない」は、具体的な対象Aから離れないと存在できないからです。
A=絶対的な正しさはあるとできれば、Aが存在することで絶対的な正しさは存在することになりますが、結び付けられないから「絶対的な正しさはない」可能性が存在するわけで。

ここのアプローチの仕方は考えたときの僕とかなり近いです。

>私の取った解消する手段が、絶対的な正しさはあるという言葉はある。絶対的な正しさはないという言葉はある。という形だったという話です。

納得した結論は違いますね。僕の場合は数個の曖昧な仮定を経て、A=絶対的な正しさという結びつきはないだろうという暫定的な結論が出ました。客観的な正誤はともかくとして、自分なりに納得するまで考えてました、当時。

>以上のことが言葉遊びなら、私の自己顕示欲を満たし己の無学さを思い知らせたという影響しかありません。

たとえば、彼女がいないから寂しいのは、心の持ちようの問題で、ほかの人が大事にしてるギターがなくても別に寂しくないわけだから、彼女いなくても寂しくない・・・・・と言葉遊びで解決しても
「ギターがなくても寂しくない」
「つまり、心の持ちようで寂しいか変えられる」(☆)
「よって、(心の持ちようで)彼女がいなくても寂しくない」(結論)
現実の対象(僕)が☆の部分が正しいか怪しくて、結論も怪しい。そういう話ですね。

>ぶらうざさんがコメントが付いたことによって何らかのものが得られたら、言葉遊びで返した行動によるものです。

言葉遊びであって、言葉遊びでないような・・・・うまい表現が見つからないのでその辺り、禅舞さんのコメントを拝借します。

『言葉で定義したり認識したり、それで議論をすることが悪いことではないし、むしろ必要だと私は思っていますけれども、言葉で表現すること、言葉の表現だけで問題を片付けることに捕らわれてしまってはいけいないな、と思います。』

つまり、コメントのやり取りで上述のように「彼女いなくても寂しくない」という結論が出たとしても、現実はどうなのか?ということですね。
2006/ 08/ 11 (金) 00: 01: 00 | URL | ぶらうざ # 3xs9owas[ 編集 ]
[正しさ 。]
世界の
正しさまで 広げたら
あたしには
わからないけれど...

あたしの中には
あたしなりの
『正しさ』が 確かに定義されています 。

自分にとって
確実に 握れるもの
無くて生きられる人たちも
疑いながら それでも何か行動できる人もいるのですが
あたしは あいにく そんなに強くないので 。

あたしは
『正しさに従って 行動する』
ように見えるようでいて
『行動するために 自分に必要な指針として
【自らが定義する正しさ】に 依存しているだけ』
なのでした 。(^^

当てにならないと知っていて
でも
そうしないと
あたしは やってられないとも
知っていて 。

ううむ・・
不可解ですみませぬ 。


よかったら
リンクさせていただけますか?
此処 。
2006/ 08/ 11 (金) 10: 15: 05 | URL | 羽天菜 # ZTGLyrdM[ 編集 ]
[正しさの範囲]
>世界の
正しさまで 広げたら
あたしには
わからないけれど...

僕も世界規模まで拡張した正しさは分かりません。もし、世界全体を覆えるような正しさがあるとすれば、それが「絶対的な正しさ」となるのでしょうね。僕はその存在を疑ってますが。

>あたしは
『正しさに従って 行動する』
ように見えるようでいて
『行動するために 自分に必要な指針として
【自らが定義する正しさ】に 依存しているだけ』
なのでした 。(^^

それは皆だいたい同じような状況ではないでしょうか。

>当てにならないと知っていて
でも
そうしないと
あたしは やってられないとも
知っていて 。

でも、羽天菜さんは特にその状況を自覚してらっしゃるようなので、「他の人との正しさの違い」に敏感になれるのでしょうね。それがどういった影響を生むのか?僕には量りかねます。怖いことなのかもしれません。

>リンクさせていただけますか?

いいですよ。貼ったリンク、剥がすのもご自由に。こちらからも「脳内REAL」リンクさせていただきました。
2006/ 08/ 11 (金) 22: 24: 32 | URL | ぶらうざ # 3xs9owas[ 編集 ]
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2006/08/09(水) 23:50:58 | 中庸が目標
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